常圓寺について
ご挨拶・お寺の歴史

ご挨拶

 現代の日本において宗教は多くのことを求められています。日頃私達が接し、お話しをしている方々とはあらゆる事柄の相談を受け解決に努力しています。

 しかしながら、既成宗教々団にありがちな「敷居の高さ」や「閉鎖性」「僧侶の質」等の問題が、身近にある佛さまの存在を遠ざけこばんでいることもあるようです。そのような状況の中で、よからぬ宗教団体があるのも事実でしょう。

 江戸時代には神社やお寺は地域の人々の願いの場であり憩いの場であり、旅人の休息の場でありました。時代が経つに従って今やそのような機能を失いつつあるからこそ、もう一度原点に立ってみる必要があると思い、微力ながらホームページを開きました。

 私どものお寺の活動を少しでも共有していただければ幸いです。あなたの心に一筋の光明をと願っています。

常圓寺 山主

縁起

 当山は福聚山常圓寺といい、通称を「成子(なるこ)の常圓寺」と呼ばれている日蓮宗のお寺です。総本山は山梨県身延町にある身延山久遠寺であり、千葉県松戸市にある本山平賀本土寺(近年、あじさい寺として有名)の有力な末寺のひとつでした。

 開創年月は不詳ですが、渋谷区幡ケ谷辺より天正13(1585)年9月13日に中道院日立上人によって現在地に移転をし、その時「成子」あるいは「鳴子」という当地名の由来にもなりました田中源左ヱ門重俊氏が当山を起立したという記録があり、今から430年前に遡ります。移転以前の幡ケ谷には180年間堂宇があったという記録もあるので、合わせると600年の歴史を有することになります。

 歴代住職には高僧が多く、江戸時代の日蓮宗最高学府であった中村檀林の能化(学校長)、本山平賀本土寺、大本山京都妙顕寺、大本山京都本圀寺、本山京都妙覚寺、本山多古日本寺へも多数晋董しており、近年に至っては日蓮宗管長、宗務総監、立正大学理事長をも輩出しております。

 本堂には徳川光圀(水戸黄門)公寄進の三宝諸尊を安置し、祖師堂には、十一代将軍徳川家齋公が江戸城中にて御守護仏とした「感応胎蔵(かんのうはらごもり)の祖師像」を奉安しています。境内1,100坪に本堂、祖師堂、大書院、中門、鐘楼堂、庫裡、蔵などの堂宇を構え、江戸三大桜の一つといわれた大枝垂桜が春にはすばらしい花を咲かせていました。昭和20(1945)年5月の戦災で諸堂を悉く焼失しましたが、昭和27年には書院・中門を移築、昭和41年には本堂再建、昭和47年には熊谷市に幼稚園を開設、昭和55年にはアメリカ・カリフォルニア州サンノゼに米国別院を建立、昭和56年には庫裡の一部を新築、平成4年には祖師堂を再建、平成14年には奥書院を新築など1,600家余のお檀家・ご信者の外護丹誠によって、往昔の伽藍に復することができました。

 お寺の活動としては毎月20日に信行会「法華感話会」を行っています。その他、3月のお彼岸には萬霊供養塔合同法要、7月17日は「お盆施餓鬼」法要、10月8日は宗祖日蓮聖人御命日「お会式」報恩法要を行っています。また、毎年9月20日には「水子供養会」を行っています。当山には昭和初期に起きた貰い子殺し夫婦の手にかかった子供男女七人の慰霊の為「淀橋七地蔵」をお祀りしています。そして、12月31日には「除夜の鐘」が新宿の街に響き渡ります。これ等の年中行事を行いながら、日々読経の声が絶えることがないようにしており、一年に3回行う檀信徒との旅行や、一年に4回発行する新聞「常圓寺季報」を通じて触れ合いを大切にしています。

 門前には太田南畝(なんぽ)(蜀山人(しょくさんじん))の筆による、便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)作「三度たく 米さへこわし 柔らかし 思ふまヽには ならぬ世の中」の狂歌碑(文政2年建碑)などがあり、2,000坪ある墓地には、幕末に幕府の全権大使としてロシアとの通商交渉にあたった筒井政憲、日本銀行本店や東京駅を設計した辰野金吾とその子息のフランス文学者辰野隆(ゆたか)、戦艦大和の設計者福田啓二、石原式色盲検査法を開発した石原忍などのお墓があります。

 その他、当山では仏教・文化関係や各種ボランティア活動等の催し、会議、勉強会に会場を提供し、仏教興隆、文化発展の為にも門戸を開き、また、諸外国からの留学生に宿舎を提供し国際交流・貢献に尽くしています。