行事・催し
9月12日 午前6時30分より『龍口法難会』 於 本堂
掲載日 2019年9月1日

文永5年(1268)蒙古国から幕府へ書状が届き、『立正安国論』で日蓮聖人が述べた「他国侵逼難」の危機が現実のものとなると、聖人は、北条時宗、平左衛門尉頼綱、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫り、文永8年(1271)7月には、 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘します。これに対し良観らが連名で幕府に聖人を訴えると、聖人は、平左衛門尉頼綱により、幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられます。

「外には遠流と聞えしかども内には頸を切べしとて、鎌倉龍の口と申す処に九月十二日の丑の時に頸の座に引きすえられて候き。」(妙法比丘尼御返事)

しかし、流罪は名目で、実際は腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されることとなります

「江の島のかたより月のごとく光たる物まりのようにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡」

「太刀取・目くらみたおれ臥し・兵共おぢ怖れる」

(「種種御振舞御書」)

龍口に着き、いよいよ首を斬ろうと、役人が刀をかまえたとたん、江ノ島の方角から不思議な光の玉が飛んできます。役人は驚いて逃げ去り、誰一人聖人の首を刎ねられるものはおりませんでした。

結局処刑は断念され、「日蓮の首斬れません」という早馬が鎌倉に向かいます。一方鎌倉からは北条時宗の使者が「日蓮の首斬るな」との連絡が向かっており、両者は小さな川で行き合います。その川は「行合川」と今も呼ばれています。

なお、龍口への途中、老婆が大聖人へ「お食べ下さい」と団子を捧げましたが、大聖人は「帰りに頂きます」とお断りになられたというお話があります。

この故事にちなんで龍口法難会では、聖人にぼたもちをお供えします。

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