法話を聞く、読む
「今、この瞬間を大切に。安らかな死の、迎え方。」2016年11月20日 法華感話会
掲載日 2016年12月9日

命とは、今日の業(わざ)にあり。
現状を自覚し、生きること。

 最近はおかげさまで、痛んだ腰のほうもだいぶ良くなってきました。主治医の柴崎先生に教えていただいた体操があるのですが、主に寝床で上半身をぐーっと起こす、そして起き上がる。この体操の繰り返しで、少しずつですが、腰のあたりにだんだん力がついてきたように思います。ありがたいことです。

 私ももう83歳になり、体力もどんどん下がっていく一方ですが、少しでも現状維持できればいいなと思っています。

院首 及川真介

Podcast

 さて今回はまず、法話会のパンフレットにも書かれている、津田左右吉先生の句からご紹介いたします。

明日いかに ならむは知らず
今日の身の
今日するわざに わがいのちあり

「明日はこの身もどうなるか、分からない。
 今日行っていること、その中にこそ自分の命や大切なことがある」という意味です。

 確かに80年近く生きていると、過去のさまざまな出来事が走馬灯のように巡り、浮かび上がってきます。ただ、それにあまりこだわってばかりではよくない。これから先にあることを、あれこれと心配してばかりでもしょうがない。とにかく、今自分が関わっていることを、一生懸命やればいいんだ、ということです。これは最近の、私自身の実感でもありますね。

 人は誰でも、確実に歳をとります。
 肉体的にはすべてが衰えますし、そのほかに特に心配なのは、脳ですね。こちらも着実に衰えていきます。私はそれをよく、物差しで測るようにしているんです。

 例えば「昨日のお昼に何を食べたか?」
 これを思い出せるかどうかが、一つの目安になってきます。今は、かろうじて思い出せるぐらいですかねえ。それが私の現状です。

 また、時々ゴルフをするのですが、先日はコースの半分で終わりにしました。足がふらふらし出しちゃって、腰が定まらない。山のコースだったので、登ったり下りたりで心臓がパカパカして、これは危ないなと思いました。

 老いを自覚して生きること――それこそがまず、安らかな死を迎えるための準備体操になるのだと思います。

感話会写真 No.00136

死後の世界をイメージ。
原始仏教の、尊い教え。

 人は死んだら、それで終わりなのか?
 みなさんは、どう思われますか?

 1500年~2000年前の古い仏教のお経では「死の先に六道がある」と言っています。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天。つまり――輪廻ですね。この世で善い行いをした人と、悪いことをした人では、それぞれに行き先が違ってくるというわけです。

 昔の人はよく、こんなことを言いました。「悪いことをすると、閻魔さんに舌を抜かれて地獄に落ちるぞ」と。でも今は、そんなことを言う親はあまりいませんよね。ましてや学校の先生や、坊さんですら言いません。

 なぜか? 本当のところは分からないからです。実際、経験したことがないから。データになって表れていないものは、信じられない――そういう時代になってきているのです。

 世の中に出ている本もそう。「死ぬまでの過程をどう生きるか」、という本は沢山出ていますが、死の先を語るものは、あまりありませんよね。

 医師の中村仁一さん。彼の著書に「大往生したけりゃ医療に関わるな~自然死のすすめ~」があります。ここでは、命には有限性、つまり賞味期限があるのだと語っています。こんな句も読んでいます。

 世の中は、今日よりほかは なかりけり

 生涯とは、今の連続。だから今を大事にし、今、今、今と刻んでいけば、結果、生涯を大事に生きたことになる、と。

 また、ひろさちやさんは「しょぼくれ老人という幸福」という本で、こう書いています。
 日本人は「一生懸命」とか、「頑張れ」という言葉が好きだけれど、今にも死にそうな人にまで「頑張れ」とついやってしまう。老人は、頑張ってもしょうがないのだ。ほどほどが一番なんだ、というわけです。

 原始仏教のお経にも、そんな話が出てきます。仏教のお話の中には、いかに生きるかだけでなくさらに、死んだ後どうなるかという、さまざまな「お話」が出てくるわけです。

感話会写真 No.00142

頑張らず、ほどほどに。
物事は、移りゆくもの。

 原始仏教のお経にソーナという人の話があります。ソーナは何事も一生懸命やる人で、生まれもよく、大事に育てられました。簡単にいうと、ヤワに育ったんですね。

 ところが仏教はかなり厳しい修行をします。ソーナは水くみや掃除でこき使われ、歩行する修行で足の裏が血だらけになります。辛くて辛くて、ついにはお坊さんになるのを「やめようか」と思います。

 そこにお釈迦様が現れ、言うのです。
「ソーナ。お前は琵琶が得意だったなあ。弦楽器の糸は、張りすぎていい音がでるか? 緩すぎていい音がでるか?」と――。

 つまり、人の一生も同じ。張りすぎても緩すぎてもうまくいかない。適当にやるのがいいんだよ、とお釈迦様は気づかせるのです。
 それから彼は、自分をうまくコントロールするようになり、偉いお坊さんになりました。

 また、チューラパンタカという人の話もあります。彼も仏教の修行を辞めようとしていました。彼はちょっと鈍いんですね。記憶力が悪い。でも、この時代の坊さんにとっては、お経は覚えるものであって、記憶力が一番大事。ある日彼は、兄から「お前は一向にお経を覚えられない。出ていけ」と言われてしまいます。

 泣く泣く、お釈迦様に相談しました。
 するとお釈迦様は、こう言うんですね。
「分かった、分かった。でも、いくらお前でも、短い文句なら覚えられるだろう?」

 お釈迦様は、「ラジャ、ラジャ」と一言だけ覚えなさいと教えます。「塵だ、ちりだ」という意味ですが、お釈迦様は白いハンカチを差し出し、これを持ってお経を覚えなさいと言います。

 ラジャ、ラジャ、ラジャ……。
 何度も唱えていると、そのうちにハンカチに手あかがついてきて、色がつき始めるんですね。灰色になり、それが濃くなり……。
「あれ? ハンカチの色が変わってしまった。これは一体、何だろう?」

 深く考えるうち、彼は悟りを開きます。
「物事は、移り変わるものなのだ」と。
 諸行無常という言葉があります。何事にも、永遠はない。ハンカチでさえも――人もまた、同じなのだ、と。
 そして彼も、偉いお坊さんになったのです。

感話会写真 No.00148

 死ぬまでに、何をすればいいか?――人は常々考えます。

 私はこう思います。何でもいい。好きなことをやればいい。でもその「やり方」を、考える必要はあるのだろう。例えばチューラパンタカのように、一つのことを繰り返しやるのもいいでしょう。うちの家内は編み物をやっております。セーターを編み、ベトナムやらどこかの国の方たちに贈っているらしいのです。毎日毎日、よくやるなあと感心して見ておりますが……これも一つの生き方ですね。

 また、ソーナのように張り切りすぎないのも大事です。適当にやればいい。無理をせず、自分の限度を知ってやればいいんです。

 ただ、私自身は多少欲がありまして……遊んでいるだけじゃ面白くない。自分の行うことが、多少なりともお役に立つことでないと、嬉しくないんですね。みなさんも、そう思いませんか?

 例えば常圓寺でも、行事の際、お茶を出したり茶碗を洗ったり、御膳を下げてくださる奉仕の方々がいます。そんな時のみなさんは、非常にいい顔をしている。「私は今日は、自分の気持ちでここにやってきて、皆さんのために身体を動かしているんだ」――そんな気持ちと行動が、みなさんの顔にいい影響を及ぼしているのではないかと思っています。

「今」の積み重ねが、安らかな死を迎えることにつながってゆくのだと思うのです。

 次回は、仏教のお話から、輪廻や死後の話に触れていきたいと思います。

最近の記事