執事の雑感
謹賀新年 2
掲載日 2018年1月1日

春の始の御悦びを申し上げます。

「一年の計は元旦にあり」とは子供の頃に教わったことです。それならば「一日の計は朝にあり」と毎日言われても良さそうなものですが、当年の初っ端に計画を立てるべきなのでしょう。
私自身は割りと工程表を作り物事を進める性分のようで、学生の頃には試験前になると几帳面にまず時間割りをし、科目をその時間に割り振って準備をしました。その通りに勉強をしたのかは怪しいものですが、人はついつい得意なことから始め、不得手なことは後回しにしがちです。やはり、より良い結果をもたらすためには段取りを組むのは大切なことだと思っています。
試験勉強はそれでなんとかなりますが、仕事となると関わる方の協力が必要で、自分の都合だけでは計画通りに運びません。アクシデントも考慮に入れて、想定内のこととして対応ができるように、余裕を持った準備が必要になります。

昨年、私の父と母はそれぞれの父母の没年齢を越えました。率直な感想を尋ねたところ、「良くわからないのだけれども安堵した」とのことです。私にとっては祖父母にあたる方々のことですが、父母ともに片親(父の母 母の父)は40歳代と早くに亡くなり、片親(父の父 母の母)は80歳代と当時としては長寿の部類でした。「一昔前の80歳と今の80歳では10歳は違うからね」と尻を叩くのですが、「安堵」には「もう充分」「任せる」という意味もあるようです。
お寺には首の細い花瓶があります。それは母方の祖母が私の住職就任祝いとし持って来てくれたものでした。祖母の家から延寿院までは自動車で3~40分かかります。一人暮らしの私に「何度も来てあげたいんだけどね」と言ってくれました。実際には二度程も来てくれて、その年に突然亡くなりました。今年は二十三回忌を迎えます。その花瓶を見るといつもそのことを思い出します。今でも心配し看てくれていることでしょう。

自らの合理性を信じる「理」と、他人に心を委ねる「情」は表裏の関係にあります。割合とすれば一対九くらいが丁度いいように思うようになってきました。様々なことを感じ、目を潤ませながらお経をあげる僧侶がいてもいいと思っています。

(八王子延壽院発行『延寿』355号 より転載)

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